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「地の塩、世の光として生きる」 |
主任司祭 パウロ朴起徳神父
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「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5・13−16)
イエス様は弟子たちに向かってこう言われました。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と。この二つのたとえは、私たちキリスト者の存在意義を深く示しています。
塩は、食べ物の味を整えるために欠かせないものですし、健康のためにも必要不可欠です。しかし、もし塩が塩気を失ったら、それはもう塩とは呼べません。ただの白い粉に過ぎず、役に立たなくなってしまいます。イエス様はこう続けられます。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と。
ここで用いられている「塩気がなくなる」という言葉、原文ギリシャ語では「μωραίνω(モライノー)」という動詞で、これは「愚かになる」という意味を持っています。つまり、弟子が自分の使命や存在理由を忘れ、神から離れてしまうならば、それは塩が塩気を失うことと同じく、愚かな者になってしまうという警告なのです。
さらにイエス様は言われました。「あなたがたは世の光である」と。この言葉もまた、私たちの信仰者としての使命の大きさを教えています。まことの光である主イエスが世に来られたように、私たちもこの世において、光を届ける者として召されています。弟子たちは、「山の上にある町」のように、また、「燭台の上に置かれたともし火」のように、人々の前で輝く存在でなければなりません。隠れることなく、光を放ち、人々のために真理を照らし続けるのです。そして、その光を見た人々、つまり、私たちの行いを目にした人々は、天におられる父なる神をあがめ、その信仰をより深めることになるでしょう。
兄弟姉妹の皆さん、
私たちは皆、イエス様の弟子です。地の塩、世の光として、この世界の中で神の愛と真理を証しする使命を受けています。塩気を失い、愚かさに陥らないために、いつも聖霊の導きを願い求め、日々の生活の中でその光を灯してゆきましょう。
どうか、私たちの行いを通して、周囲の人々も天の父を知り、賛美し、共に神の国へと歩んでいくことができますように。また、主が私たち一人ひとりを祝福してくださいますように。アーメン。
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