|
|
「来なさい。そうすれば分かる」(ヨハネ1・39) |
主任司祭 パウロ朴起徳神父
|
|
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。(ヨハネ1・35−39)
信頼とはどのようにして生まれるのでしょうか。皆さんはどのような過程を経て誰かを信頼するようになりますか。最初から相手に対する信頼が生まれることはほとんどありません。よく会っていると、ある瞬間から親しくなります。そしてその人に対する親しみが生まれます。そして、そのようなプロセスを通して少しずつ相手に対して心を開き、信頼が生まれます。このようにして私たちの多くは、これらのプロセスを経ることで、誰かを信じることが出来るようになるのでしょう。
イエス様に対する信仰も過程を必要とします。では、キリスト者と呼ばれる私たちは、どのような過程を通してイエス様に対する信仰が生まれるようになったのでしょうか?それは、その方とよく会って、その方がどんな話をしているのかをよく聞いて、そして、他人にはあまり話せないこともその方に打ち明けることによって、信頼関係が築かれていきます。
福音で洗礼者ヨハネの弟子たちは「来なさい。そうすれば分かる。」というイエス様のことばを聞き、次のように行動しました。「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。」
弟子たちは、「行く」・「見る」・「泊まる」、 この3つの行動を通してイエス様をメシアとして信頼しました。「わたしたちはメシアに出会った。」すなわち、「行って、見て、一緒に泊まること」を通してイエス様が「分かる」、つまりイエス様を理解するということと、それによって、「信仰」を持てるようになったのです。
「行く」・「見る」・「泊まる」は、イエス様がどんな方なのかをわからせ、その方に対する信頼を持たせる基本的な行動です。もしも、私たちが信仰の生活を長く続けていても、イエス様がどのような方なのかよく分からずに、自分の信仰があまり成長していないように感じられるなら、その理由は、これらの3つの行動とプロセスが丁寧に成されていないためではないでしょうか。
皆さん、私たちにとって基本的に必要なことはまさに、聖体の中に生きておられるイエス様に近づき、その方を眺め、その方と一緒にとどまる時間だといえます。信仰はこのような過程が積み重なって、知らないうちに成長し実を結びます。そのため、やむを得ない理由で教会に来れないのではなく、ミサの大切さや意味について意識することなく、気持ちが向いた時にだけたまにミサに与ろう、といった姿勢が心のどこかにあるならば、信仰の成長はむしろその場に留まるか退歩することになるでしょう。どうか、私たちの信仰が 復活された主のうちに成長していくことができますように、と祈ります。
|
|
|
|
|
|
Copyright(C) 2011 Takarazuka Catholic Church All Right Reserved. |
|