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「祈りによって、主の働き手となる」 |
主任司祭 パウロ朴起徳神父
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― イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9・35ー38) ―
福音で、イエス様は私たちにこう呼びかけられます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。この「願いなさい」という言葉は、原文のギリシャ語では「δεήθητε」(デイチテ)といい、それは「願う」「求める」という意味に加えて、「祈る」という意味も含んでいます。つまり、イエス様は私たちにこのようにおっしゃっているのです。「働き手が少ない今こそ、神様に助けを願い、祈りなさい」と。
現代の教会も同じでしょう。奉仕の場や必要な働きも多いですが、祈りに根ざした奉仕をしているかというと、そうでない時もあるかもしれません。特に教会の奉仕に携わっていると、「神様のために働いている」という思いが強くなり、いつの間にか祈りを後回しにしてしまうことがあります。表面的にはとても熱心な信徒に見えるかもしれません。しかし、それがもし祈りのない奉仕であれば、やがて神様ではなく、自分自身を中心にしてしまう危険をはらんでいます。
そのような時、私たちの心は神様から遠ざかり、「自分が正しい」「自分が必要とされている」という思いに支配されやすくなります。これは、福音に登場するファリサイ派の人々とよく似ています。彼らは律法を守り、祈りや断食も欠かさない人々でしたが、イエス様は彼らに対して厳しく言われました。「ファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」と。(マタイ23・27)
イエス様は、隠れたところでの神様との深いつながりを持つ祈りを求めておられます。祈りとは、自分の中心に来てくださる神様と出会う時間です。祈りの中で、神様の愛に気づき、赦しに触れ、使命を受け取ることができます。そして、その祈りに生きる人は、やがて神様のための働き手となります。自分の力ではなく、神様からいただいた愛と力で人を支え、癒し、希望を届ける働きをしてゆくのです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは皆、イエス様から呼ばれています。その呼びかけに応えるためには、まず静かな祈りの中でイエス様と出会うことが必要です。そこでいただいた恵みによってこそ、私たちは真の働き手として立ち上がることができるでしょう。
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