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| 「主の降誕を待ちながら — 心の畑を整える時」 |
主任司祭 パウロ朴起徳神父
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神のみ言葉は、ただ慰めや感動を与えるだけのものではありません。時に、私たちを救うために、敢えて草のように抜き取られたり、また破壊し、滅ぼし、砕かれることもあります。そしてそのうえで、私たちの心に福音の種を植え、神の国を築くように促すのです。だからこそ、それらの言葉は時に耳に痛く、重く感じられることもあるのです。
『マタイによる福音書』第13章には、天の国についてのいくつものたとえが登場します。その中で注目したいのは、「すでに始まっている天の国」と「最後に完成する天の国」との間には、明確な違いがあるという点です。
この世において始まった天の国は、まだ「芽」にすぎません。それはまるで、良い種と毒麦がともに育っている畑のようなものです。イエス様は言われました。”世の終わりの時、毒麦は焼かれ、良い実だけが残される、”と。
また、「いろいろな魚を集める網」のたとえでもこのように語られています。この時、すべての魚がともに網にかかっていますが、やがて時が来ると、良い魚は器に入れられ、そうではない魚は投げ捨てられるということです。
イエス様は、良い種と毒麦をすぐに分けるのではなく、終わりの日まで共に育てておかれます。それは、神の憐れみと忍耐の表れです。これは、今が「猶予の時」、神が私たちに与えてくださっている「チャンスの時間」であることを意味しています。そして、この与えられた時間の中で、私たちは何を選ぶのかを問われているのです。
私たち一人ひとりの心の中にも、良い種と毒麦が共存しています。信仰の芽もあれば、自己中心的な思いや、妬み、怒り、無関心といった毒麦もまた根づいています。神の国は確かに始まっていますが、まだ完成には至っていません。その中で、主は私たちに選択を求めておられるのです。主の招きに心を開き、み言葉に従って生きるのか、それとも他の価値観に心を奪われてしまうのか。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、まもなく私たちは、大いなる希望の季節である待降節を迎えます。この時期に、私たちは自分の心の畑を静かに見つめ直すよう招かれています。神のみ言葉に耳を傾けながら、心の中にあるおごりや無関心さ、そして利己心といった毒麦を少しずつ取り除いてゆくこと、また、祈りと希望、赦しや愛という良い種を育ててゆくことこそが、私たちに与えられた「待降節」の歩みでしょう。
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