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「平和月間を迎えて-主が望まれる平和とは」 |
主任司祭 パウロ朴起徳神父
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「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14・27)
毎年、日本のカトリック教会は「平和旬間」や「平和月間」を通して、戦争の記憶を風化させることなく、主が望まれる真の平和について黙想し、祈り、行動するよう招いています。今年もまた、この時期を迎えるにあたり、あらためて「平和」とは何かを考える機会をいただいています。
聖書の中で、主イエスは弟子たちに「わたしの平和を与える」と言われます。これは、単なる言葉による慰めではなく、主が十字架の死と復活を目前にして、そのなかで弟子たちに託された、深い霊的な贈り物でした。さらに、主イエスは続けて「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と明言されます。この言葉にこそ、私たちが目指すべき平和の本質があります。
一般に「平和」と聞くと、戦争や暴力のない状態、または社会的・政治的安定を思い浮かべるかもしれません。もちろんそれも大切な平和の側面のひとつです。しかし、主イエスが語られる「わたしの平和」は、それとは異なる次元にあるものです。それは、どれほど外の世界が混乱していても、心の内に揺るぎない静けさと主への信頼を保つことができる、神との深い一致の中にある状態を指しています。
ヘブライ語の「シャローム(שָׁלוֹם)」とは、単に争いがない状態だけを指すのではなく、欠けたところのない充足さ、調和性、そして神との正しい関係のなかに平和があるということを意味する「平和」という言葉です。これは、私たちが神に根ざして生きるときにのみ得られる、霊的に満たされた状態です。すなわち、自分自身や隣人、そして神と和解し、和のうちに生きるための源であるということです。
ミサの中で、司祭が「主の平和が皆さんと共に」と宣言するとき、私たちはその「主の平和」を互いに願い、分かち合うよう促されます。この平和は、ただ一時的な安らぎではなく、復活されたキリストが弟子たちに与えられた永遠の賜物です。だからこそ、私たちもまたその平和を求め、それに生きる者となるよう招かれているのです。
多くの人が、人生の中で心の平安を求めて信仰の道へと歩みを進めます。それはとても自然なことであり、神ご自身もそのような私たちの不安や恐れに寄り添ってくださいます。しかし、信仰とは単なる慰めを得るための手段ではありません。むしろ、不安や混乱のただ中にあっても、神に根差した信仰による生き方を続けることによってこそ与えられる、「揺らぐことのない平和」を目指す旅路なのです。そして、この「主の平和」は、人間の力だけでは得ることができません。それは祈りと信仰のうちに与えられる神の恵みであり、私たちが互いに祈り支え合う中で育まれてゆくものです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは一人ひとりが弱さを抱えながら生きています。一時的には心が穏やかであっても、現実の不安や恐れによってその平和は簡単に崩れてしまいます。だからこそ、私たちは主がくださる「真の平和」を求めて、祈りのうちに歩み続ける必要があります。そしてこの平和を、家庭や職場、地域社会の中で具体的に証ししてゆくことこそ、現代を生きるキリスト者の使命ではないでしょうか。
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