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イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18・1−8)
福音には、一人のやもめと裁判官が登場します。やもめは、社会的に弱く、助けを必要とする存在の象徴です。一方、裁判官は人の罪を裁く権限を持つ、強大な力の象徴として描かれています。しかもこのたとえに登場する裁判官は、「神を畏れず、人を人とも思わない不正な裁判官」でした。
ところが、このやもめは、そのような不正な裁判官の前でも気後れせず、繰り返し足を運んで訴え続けました。「相手を裁いて、わたしを守ってください」と。福音の中で特に注目すべきは、「裁く」という言葉が繰り返し使われている点です。実に4回も登場します。
新共同訳の聖書では、この言葉は単に「裁く」と訳されていますが、ギリシャ語の聖書の原語では「正しい判決を下す」という意味を持つ言葉が用いられています。たとえ不正な裁判官であっても、その口から「正しい判決」が語られるのであれば、やもめの無念は晴れるのです。つまり、やもめが求めているのは、まさに「正しい判決」であり、それは神の御心に適うことを願っている姿そのものでもあります。
この福音は、次の言葉から始まります。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」ここでイエス様が語られる「祈り」とは、自分に必要なものを都合よく願うことではなく、神の御心を探し求める姿勢を指しています。
そして、その神の御心を探し求める時には、福音のやもめのように、あきらめず、絶えず神のもとに歩み出て祈ることが求められるのです。イエス様はこう語られました。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」
兄弟姉妹の皆さん、祈りと信仰は、まるで線路のように、常に並行して進んでいきます。祈りの力は、信仰の力に他なりません。そして、信仰が深まるほど、祈りに向かう心もより豊かに育まれていくのです。イエス様は、私たち一人ひとりが、自らの信仰をじっくりと見つめ直すことを望んでおられます。
イエス様が再び来られるその日、私たちはどのような姿でそのお方の前に立つのでしょうか。それは、私たち自身の歩みに委ねられているのです。
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