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2013年6月号 信仰年の信仰宣言のコメント
     「受肉の神秘」
主任司祭 パスクアル・サオリン・カマチョ神父

 キリスト教では、色々な神秘ではなく、一つの神秘しかありません。この神秘は、神様の愛です。しかし、わたしたちは神様の愛の神秘を理解するために、神学を通して色々な神秘について話します(例えば受肉の神秘)。一つの神秘があれば、受肉の神秘の中にも創造の神秘、死と復活の神秘、救いの神秘をも見つけることができます。従って、受肉の神秘が分かるために、他の神秘を忘れないで、人間の肉を通して神様の愛を示してくださる出来事を眺めましょう。

 マリア様の体内の中で行う神秘は、神様の創造、キリストのいけにえと復活、聖霊の注ぎと人間の救いの神秘です。マリア様のお告げの時、同時にすべての神秘が行われるので、わたしたちは自分の弱い理性を使っても、完全には理解できません。神様の神秘が創造の中で現れる時、永遠の神様の愛は創造と歴史をつらぬいて、この世の限界を乗り越えます。どのようにして人間が自分の弱い道具でその永遠の愛を理解することができるでしょうか? 人間は理解できませんが、信仰によってその神秘を悟ることができるし、味わうこともできます。そのため、信仰は神様の最も素晴らしい恵みです。

 受肉の神秘を悟ることは、勿論、お告げとマリア様の答えを眺めることです。しかし、それだけではなく、受肉の神秘は創造から始まって、十字架を通して続き、永遠の命まで達します。わたしたちが信じる神様は人間から離れ、天国だけにおられる神様ではなく、人間の肉の肉、骨の骨、同伴者になってくださる神様です。旧約聖書では神様は民の苦しみは自分の苦しみにされました。その苦しみはキリストを通して歴史の人になりました。また、復活したキリストはこの世を去って、昇天しても、聖霊を通していつもこの世を聖別し、パンとワインを通してすべての疲れ、悩み、失敗、働き、また喜び、希望、信仰と愛を自分のものにしてくださいます。受肉の神秘を信じることは、世俗的なことでも救われると信じることです。他の宗教にとってこの神秘はつまずきのようです。しかし、わたしたちにとって希望のお知らせです。この世のすべての「肉」、すべてのもの(悪いものも含めて)は神様に受け止められ、聖別されて、救われました。その救いを受けるために、人間から離れている神様を信じるより、日常の生活を通して現れる神様を信じましょう。


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