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2025年 10月号
完全さへの招き ― いつくしみの心をもって生きる
主任司祭 パウロ朴起徳神父

 イエス様は私たちにこう語られました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と。(マタイ5・48)この言葉は、一見すると非常に高い理想を示しているように感じられます。

 「完全である」ということ。それは、私たち人間には到底いたることのできないことであるように感じる表現でしょう。では、イエス様が語られた「完全さ」とは、果たして何を意味しているのでしょうか。

 福音をよく読み深めてみると、イエス様が語る「完全さ」とは、神のような完璧さではなく、神のいつくしみと憐れみの心を指していることが分かります。天の父なる神は、正しい者にも悪しきもののもとにも、分け隔てなく太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるお方です。こうした神の振る舞いは、私たちに対する偏りのない愛、そして限りないいつくしみを表しています。

 イエス様は「神のように完全であれ」と命じられているのではなく、「神のように、すべての人に対して、憐れみと愛の心をもって生きなさい」と招いておられるのです。この呼びかけは、ただの道徳的な提案ではなく、イエス様ご自身の生き方に基づいた、福音の核心そのものなのです。

 イエス様は、ご自分を十字架につけた人々のためにさえ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。(ルカ23・34)。この中には、敵にさえ赦しといつくしみを向ける、神の愛の深さが表れています。イエス様は、私たちにもそのような同じ愛と赦しの心をもって生きるよう、示しておられるのです。

 愛と赦し、それは単に他者のためだけにあるのではありません。実はそれは、私たち自身の魂の癒しのためでもあります。誰かに対して怒りや恨みを抱き続けていると、その苦しみは相手以上に、自分自身の心を蝕みます。反対に、心を開いて赦すことによって、私たちの中にあった痛みや傷は少しずつ和らぎ、癒されてゆくのです。

 もちろん、完全な赦しなど、すぐにできることではありません。赦せない、という思いが心に残り続けることもあるでしょう。しかし、だからこそ、神と共に歩みながら、少しずつでもいつくしみの心を育ててゆくことが大切なのです。その一歩一歩の歩みの中で、私たちの内にあった怒りや憎しみは次第に溶けてゆき、神の御心へと導かれてゆくことでしょう。

 兄弟姉妹の皆さん、私たちは誰かを赦すことができるでしょうか。私たちは神のように、誰にでも太陽と雨をもたらせる者となれるでしょうか。すぐに答えを出すことは難しいかもしれません。しかし、日々の祈りと行いの中で、少しずつでも、いつくしみの人へと変えられてゆきませんか。どうか、主の恵みに支えられて、私たちの心が愛と憐れみに満ちたものとなりますように。そして、他者への赦しを通して、自分自身も神の平和のうちに生きることができますように、アーメン。


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