カトリック宝塚教会 月報 巻頭言  カトリック宝塚教会のロゴ

2021年 11月号
死者の月
グエン・シン・サック神父

   私たちカトリック教会では、教会の典礼暦として11月2日は「死者の日」とし、亡くなったすべてのキリスト者を記念します。11月が「死者の月」として定着してきたのがいつからなのか定かではありませんが、死者への思いがミサをはじめとする様々な祈りの形で表され、それが広がりを見せ、伝統・習慣となって次第に死者の月になったと考えられます。
 私たちカトリック教会では、信仰宣言で、「聖徒の交わり」という言葉で、「キリストを信じるすべての者、すなわち地上で旅する者、自分の清めをうけている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成していることを信じます。またこの交わりにおいては、神と聖人たちがあわれみ深い愛をもってわたしたちの祈りに耳を傾けていることを信じるのです(cf.カトリック教会のカテキズム962)。
 その信仰宣言は、すなわち、キリスト教の初期の時代から、私たちカトリック信者に、敬愛の心をもって死者を深く尊び、記念し、死者のための祈願をささげるように導いてきました。この「聖徒の交わり」は、死者のためにおこなうはずのわたしたちの祈りが、逆に、死者がわたしたちのために執り成す祈りの流れと一心同体であることを、意味しています。

 人は、死ぬとすぐに、人生でのキリストとのかかわりについて、私審判を受けます。その結果、ある人は、すぐに天の永遠の報いを受け、ある人は、ある期間、清めを経た後で天に入り、ある人は、永遠の苦しみを受けるとされています。
 カトリック教会では、人間が死んだ後で、煉獄での罪の清めが必要な霊魂は、地上からのほかの人の祈りによって、この清めの期間が短くなるという考え方があります。死者の日はこのような考えの中で、煉獄の死者のために祈る日となるのです。

天国
 人の言葉では表現し尽くせないものが、「天の国の幸せな状態」と思いますが、聖書は、いのち、光、婚礼の祝宴、父の家などの言葉で表しています。私たちは、この世で神を直接に見ることはできません。しかし、天国では、神を「顔と顔を合わせて見る」ことができると、聖パウロは書いています。これは「至福直観」と呼ばれます。

地獄
 痛悔をせず、神の慈しみを受け入れず、大罪を犯したまま死ぬことは、「私たちが自分の自由意志によって、永遠に神から離れることを選び取った」ことを、意味します。
このような自分から決定的に神との交わりから離れ去った状態を、「地獄」と言います。教会に属している私たちは、だれ一人として、自分から神を捨て去ることがないように、皆が悔い改めるように、神の憐れみを、切に、祈らねばなりません。

最終の清め・煉獄
 カトリック教会では、天国、地獄だけではなく、神との親しい交わりを保っていたとしても、完全に清められないままで死を迎えた人は、天国での喜びに入るために、ある浄化の苦しみを受けると教えています。教会は、この最終的浄化を「煉獄(れんごく)」と呼んでいます。
そのために、私たち地上に生きる者は、死者が清められて、神の至福直観に至ることができるために祈り、ミサをささげ続け、死者のために、施し、免償、償いのわざをするように勧めるのです。

真の地獄とは
 煉獄と地獄の違いは未来の救いがあるかの違いといえます。地獄についても、煉獄についても、私たちが、「正しく把握できることではない」、といえるとおもいます。あるいは、死者のための祈りが、私たちが想像しやすい、「煉獄からの救霊」として役立っているかどうかも、実は真実を言い当てていないかもしれません。では、なぜ死者のための記念日を設けたり、11月を死者のための月と決めたりするのでしょうか?

 私たちは、なぜ、亡くなったすべてのキリスト者の為に祈るのでしょう?
それは、次のような効果も大いにあるとおもいます。

・私たち自身の為
 煉獄にいる人々の霊魂の為に祈ることは私たちの為にもなるのです。彼らの為に祈ることが、私たち自身が死の床にいるそのときに、神の国に迎えられるように、神に願い、自己のより良い生活啓発につながるのです。

・子供たちに祈る習慣づけ
 子供たちとともに、なくなった家族のために祈る時、子供たちに生きることの意味を深く感じさせ、他者の為にも祈ることの大切さを教えることになります。

・私たちに徳を得る
 亡くなった霊魂のために、早く天国に入ることが出来るように、という祈りの場は、祈りの中でも、私たちから雑念を遠ざける、真剣な祈りの場とすることができるのです。

・簡単にできる
 亡くなった人の霊魂の為に、ある時期、集中的に祈ることが求められている気持ちは、例えば、ミサに与り祈ることもしますが、歩きながら、主の祈りやアヴェ・マリアの祈りをすることに自分を誘うことに繋がります。あるいは、亡くなった人の霊魂の為という意向にあわせて、節制・施し・墓参などを試みる働きが、この自分に生じる機会となし得るのです。
 

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