カトリック宝塚教会 Takarazuka Catholic Church

■ ときどきクジラ通信 ■
 宝塚教会の信徒による神父様の説教やミサのレポートです。神父様の言葉そのものではなく、筆者による解釈や主観も含まれています。文字通り、ときどき、不定期に更新します。

◆ 2026年 ◆

◆ 2026年1月17日(土) 18日(日) 年間第2主日 ◆
 阪神淡路大震災から31年にあたり、ミサの前に黙祷をささげました。あの時は自分が生きている間で最大の災害だと思っていたのですが、その後も大災害は続き、また自然災害でなく戦争による災厄も大きな犠牲をもたらしています。麻痺しないようにせねばと思います。
 (ヨハネ1.29-34)イエスが来られるのを見てヨハネが言った「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」、これは神と人の和解の道をひらくために来られたイエスの使命を表しています。小羊とはまず、過ぎ越しの小羊。イスラエルの民がエジプトから解放されるときに、災いから守られるしるしとなった小羊です。そしてつぐないの小羊。人の罪のつぐないとしてささげられ、犠牲となる小羊です。ヨハネの言葉「世の罪を取り除く神の小羊」は、これは私たちが毎週ミサの中で唱えている言葉でもあるのですが、イエス様がすべての人を罪と死から解放するために来られたことを示していると説かれました。つつましく確かな信仰の模範を示した洗礼者ヨハネのように、私たちもイエスを迎えることができますようにと、お祈りしました。

◆ 2026年1月11日(日) 主の洗礼(祝) 子どもとともにささげるミサ ◆
 (マタイ3.13-17)前週のミサのあと馬小屋の飾りつけは片づけられ、イエス様は赤ちゃんから青年になりました。その前後のミサは、いずれもイエス様が私たちの前に現れたことを記念しています。「主の公現」では幼子の姿で東方の博士たちの前に現れ、「主の洗礼」ではヨルダン川で罪人の中に入ってこられたことを。イエス様が洗礼を受けると聞き、驚きとまどったヨハネに対するお答えはこうでした。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」罪なき方でありながら罪の赦しの象徴である洗礼を受けること、そしてのちには人々の罪を担って死に至り、復活すること、これらが「正しいこと」「わたしの心に適う」と表現されています。お説教のあとには、主の洗礼と私たちの洗礼を記念して、灌水を受けました。
 この日は子どもとともにささげるミサで、霊名のお祝いと誕生日のお祝いがありました。また、新成人となった若者2名のためにもお祈りをしました。

◆ 2026年1月4日(日) 主の公現(祭) ◆
 (マタイ2.1-12)東方の博士がイエスを礼拝しに来ました。それによりイエスがすべての人に姿を現したことを記念する日でした。まず、主イエスは聖堂の中にだけいるのではなく、日々の生活の中で静かにご自分の姿を現される、と話をされました。その主に出会うために、私たちの心を主に向けましょう。東方の博士たちが星の導きを信頼したからこそイエスに出会えたように、私たちも心を照らす光に目をむけて、光を信頼して進みましょうと。そして自分中心の欲から離れることが大切であると。ヘロデの宮廷の人たちは救い主がベツレヘムに現れることを知っていたのに、その光を受け入れることを阻んだのは欲だといえるでしょう。人間の欲は心を曇らせます。私たちは主の現存に心を開き、導く光を信頼し歩んでいくことができるよう、お祈りをしました。

◆ 2026年1月1日(金) 神の母聖マリア(祭) ◆
 新年あけましておめでとうございます。初詣として集まったと言っていいでしょう、大勢のみなさんとお会いできて、嬉しい元旦でした。みなで年初に与ったのは、マリア様の祝日のミサでした。
(ルカ2.16-21)マリア様の祝日にあたり、あらためて神に向かってともに歩んでいくマリア様の話をされました。神の祝福の中心にあるのは平和であり、平和の源が聖母マリアの御心であること。聖母マリアは神の子を産むことによってすべての人の霊的な母になったこと。そして私たちも神の子として祝福を受けて生きるということの話をいただきました。
 私たちは正月休みとお盆休みにマリア様の祝日を迎えます。特別な気分でみなで集まってミサに与ることは、とても幸せなことです。本年もよろしくお願いします。

◆ 2025年 ◆

◆ 2025年12月24日(水) 25日(木)  主の降誕(祭) ◆
 (ルカ2.11-14)冬の寒い夜、動物のにおいのする劣悪な環境で、主イエスはお生まれになりました。それは神の御心でした。マリアとヨセフ以外で最初にイエス様を拝めたのは、羊飼いたちでした。それも神の御心でした。よい知らせを真っ先に弱い人貧しい人に届けるという、神の御心でした。マリアが子を産むとき、宿屋(客室、場所)は空いていませんでした。私たちの心にイエスを迎える場所は空いているだろうか、そう問いかけられました。
 (ヨハネ1.1-18)夜が明けて、「光」がテーマだったように思います。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」みことばのうちに生きて、光とともに歩むのが、信仰の原点であると説かれました。
 主の降誕の祝日にはたくさんの人が集まり、子どもたちにはプレゼントがあり、ココアのサービスを準備してくださった人たちがいて、みなで喜び祝いました。

◆ 2025年12月21日(日) 待降節第4主日 子どもとともにささげるミサ ◆
 (マタイ1.18-24)クリスマス前の最後の主日でした。福音書は「アブラハムはイサクの父であり…」と系図が列挙された次の箇所で、イエス・キリストがダビデの家系としてどのように来られたかが語られていました。さらに、律法を守ることとマリアを守ることの狭間でいだくヨセフの苦悩と、神は約束どおり来られ、いつもともにいらっしゃるという話をされました。神は遠くにいるのではない、私たちに近づいてこられる、そして私たちとともにおられるというのが、降誕祭の最大の恵みであると説かれました。
 子どもとともにささげるミサで、12月霊名の祝日にあたる2人と、誕生日の2人をお祝いしました。そして、子どもたちによる歌のプレゼント、その後は日曜学校のクリスマス会がありました。

◆ 2025年12月13日(土) 14日(日) 待降節第3主日 ◆
 入祭唱に「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」とあるように、喜びを表す日で、そのとおり第1朗読(イザヤ35.1-6a,10)は喜びにあふれていました。第2朗読(ヤコブ5.7-10)で繰り返された「忍耐」は、その喜びを待つために必要なことなのでしょう。私たちはメシアが来られたことを知っているから、それこそ毎年待降節を迎えているのですが、福音書(マタイ11.2-11)でヨハネがメシアに対して異なった想像をしていたのをみると、ただ一度の当時の様子がリアリティーをもって伝わります。
 待降節の第1週のテーマは「希望」、そして第2週以降「平和」「喜び」「愛」へと続きます。日曜日に秘書のスック神父様とともに来てくださった前田万葉大司教・枢機卿様には、黙想会「待降節どうすればよいわたしたち」の中で、この待降節の過ごし方について、俳句を交えながらお話をしていただきました。

◆ 2025年12月7日(日) 待降節第2主日 ◆
 (マタイ3.1-12)洗礼者ヨハネの力強い言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」がありました。ヨハネは厳しい荒れ野で過ごし、ただ神から託された言葉を真っすぐに、神の救いの訪れを伝えました。ヨハネが伝えた「悔い改めよ」は、現在の私たちに向けられたメッセージでもあります。悔い改めるということは、考え方や心のあり方を根本的に改め、神の御心にたちもどることです。そのような悔い改めは、第1朗読(イザヤ11.1-10)では救い主を迎える土台として、第2朗読(ローマ15.4-9)では民族人種を超えて神を賛美する教会の姿として描かれていました。この待降節で私たちが心を整え、まっすぐに救い主をお迎えすることができるよう、お祈りをされました。

◆ 2025年11月30日(日) 待降節第1主日 ◆
 この日から典礼暦の新年、待降節に入りました。「目を覚ましていること」がテーマでした。福音書(マタイ24.37-44)では、ノアの洪水のたとえ話と泥棒のたとえ話がありました。それを通して、心が闇の中にあるのか光の中にあるのか真剣に向き合うこと、光に向かう決意を持つことが、「目を覚ましている」ことの出発点であると説かれました。ただ待つだけでなく目を覚まして待つということは、主が必ず来られると思っていないとできることではありません。つまり信仰に根差したものといえます。第2朗読(ローマ13.11-14a)の「主イエス・キリストを身にまといなさい」は、そのことを表しているのでしょう。主イエス・キリストを身にまとい、目を覚まして待降節を過ごしましょうと呼びかけをされました。

◆ 2025年11月23日(日) 王であるキリスト(祭) ◆
 典礼暦の最後の日でした。典礼暦は、私たちが神の国を生きるために繰り返し歩んでいく旅路であり、その終着点はイエス・キリスト、王であるキリストの祭日です。その終着点が神と人との和解である、とのお話がありました。私たちは日本語で聖書を読むので、和解というからにはどんな対立があったのだろうかと思ってしまいますが、ここは「和解」を「調和」と言いかえてもいいのかも知れません。福音書(ルカ23.35-43)では、罪人とともに十字架につけられたイエス様が描かれていました。イエス様は、最後まで罪人とともにいて、忍耐をもって神と人間の和解へと至る道を歩まれたのだと。
 次の週には待降節に入ります。ミサの後、日曜学校の子どもたちは馬小屋づくりにいそしんでいました。



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