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2016年5月号 
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる 」
(ヨハネ10・9)
主任司祭 カレンガ神父

   教皇フランシスコは、「いつくしみの特別聖年」を定めたことにより、神の名は「いつくしみ」だということを、改めて教会に気づきのきっかけとして与えられました。私たちは、神の「いつくしみ」を受け、また聖なる神にアクセスするために、イエスという門を通るように導かれています。イエスこそ、「…主の城門 主に従う人々はここを入る。(詩篇118:20)」のです。そこで、何故、門を通るのか、何故、聖なる扉をくぐるのでしょうか、と呟く人が、たくさんいるのではないでしょうか。

 実は、わたしたちは、日常生活の中で、いろんな門をくぐり、出入りしています。例えば、家、学校、会社、公園、病院、教会、場合によっては牢の門などですが、その門の意味は様々です。それは人々を友のように受け入れ、又は、敵のように拒否する意味もあれば、人々を拘束し、又は解放する意味もあります。

 聖書においても、門/扉のシンボルが用いられています。
 最初に、エデンの園の門 はアダムとエバに閉じられました(創世記3:24) が、天の都エルサレムの門は、子羊の血で洗って白くされた者に開かれました(ヨハネの黙示録 7:14)。 イエス様は、ご自分のことを羊の門であると述べられました(ヨハネの黙示録21:1-27)。 門であるイエス様と羊たちは、お互いに知り尽くされているのです(ヨハネ10:7-16)。 また聖書は、イエス様を私たち一人ひとりの心の門に立っておられる方であると紹介しています。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3:20)。

 福音記者たちは、門に対する数多くの記述を残して下さっています。いくつか紹介しましょう。
 「 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」 (マタイ7:13-14)。
 『シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。… ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出てきて門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った』(ヨハネ18:15-17)。
 『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた』 (ヨハネ20:19) 。
 『彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた』 (マルコ16:3)。
 教会は15世紀から、回心と信仰告白のしるしとして (聖なる)門/扉を、用いるようになりました。門をくぐることは、暗い過去から解放され、光を受けて、罪の奴隷の状態から神の子としての自由な状態を、自ら選ぶことです。その選択に伴い、私たちは巡礼をしたり、ゆるしの秘跡と免償を受けたりする機会をいただくのです。
 聖なる門/扉は教会の門です。教会の門は、洗礼式から告別式までの私たちの人生の節目において、静かな証人です。いつくしみの特別聖年が終わってからも、いつも教会の門を通る時に、私たちは、門であるキリストを通っていると(信仰)告白し、そして、キリストの命に与かることができますように。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。… わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(ヨハネ10:9-10)」。
 

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