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2016年2月号 
「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています 」
(詩篇51・5)
主任司祭 カレンガ神父

   2015年 12月8日から私たちは、いつくしみの特別聖年を過ごしています。この期間、私たちには、免償を受けるチャンスが与えられています。過去に、この免償に対する不理解によりキリスト者の分裂のきっかけとなったという苦い歴史がありました。この機会に、皆さんの免償に対する理解を深めて頂けたらと思います。

 まず、免償を理解するには、ゆるしと免償とを分けて考えます。モーセに現れた神は、罪と背きと過ちを赦す方だと宣言したのち、次のように付け加えられました。
「…しかし罰すべき者を罰せずにはおかないのです」( 出エジプト記34・6-7)
大罪を犯したダビデ王は、罪の告白によって、罪のゆるしを受けるが、その罰は免れませんでした。…ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」 (サムエル記下12・13-14)
このように父である神は、私たちを鍛えるためにも、いつくしみと正義を表しています。
「いったい、父から鍛えられない子があるのでしょうか」 (ヘブライ12・7)
ダビデ王が認めたように、「この神の私たちへの裁きには誤りがありません」 (詩篇51・6)

 私たちは、ことばや行い、おこたりによって他者を、身体的、精神的に傷つけ罪を犯します。神は、私たちの犯した罪を回心により赦してくださいます。そして同時に、私たちにしつけのために、有限の罰、償いを課すのです。私たちは、いつくしみのわざによってその償いを果たしますが、いろんな理由で課せられた罰を果たすことが困難であったり、または、償いを果たさないで死んでしまった場合などがあります。このような時、教会は免償を与えることができるのです。

 免償について〈カトリック教会のカテキズムNo.1471〉に次のように表されています。
「すでに赦免された罪に対する有限の罰の、神の前におけるゆるしであって、キリスト信者は、これをふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の介入によって獲得します。教会は救いの奉仕者として、キリストおよび諸聖人のいさおしの宝をもって、分配し付与します。すべての信者は部分免償または全免償を、自己自身のために収受し、または( 代禱で )死者に付与することができます」。

 神は、人間のすべての罪とその罰を取り除くために、主イエス・キリストを「免償」として遣わされました。十字架の死によって、主イエスはすべての罪を贖われました。私たち人間はこの神様のオファーに協力しないといけないのです。教会は、人間の努力をサポートする形で、神様に罰の軽減、または取り消しを願うのです。教会は、イエスの言葉と聖人の取り次ぎに信頼をおき、願うことが叶えられるということを信じているのです。  

 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 (マタイ16・19)。
 「いつくしみの特別聖年」にあたり、教皇フランシスコは、使徒の頭であるペテロの後継者として、すべての司教に免償を与える力を授けました。大阪教区ではその特別な恵みに与るために、信者に以下の努力が求められています。① 聖なる扉を通る  ② 十字架のしるしをする  ③主の祈りを唱える  ④アヴェマリアの祈りを唱える  ⑤教皇フランシスコの特別聖年の祈りを唱える  ⑥栄唱を唱える  ⑦ 前後十日以内ゆるしの秘跡を受ける  ⑦聖体の秘跡を受ける。  
 宝塚教会の私たちもこの恵みの時を豊かに過ごせますように。
 

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