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2015年12月号 
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」
(マタイ5:7)
主任司祭 カレンガ神父

    教皇フランシスコの呼びかけで、12月8日、無原罪の聖マリアの祭日から、2016年11月20日、王であるキリストの祭日までの約1年間、教会は「いつくしみの特別聖年」を過ごすことになっています。いわゆる「八つの幸」の中で神様と人間が共通して持っている、あるいは持つべきことはそのいつくしみであると言えるでしょう。

 この度、私たちは「いつくしみ」を聖書の観点から考えてみましょう。
 「いつくしみ」はラテン語のMisericordia の訳です。Misericordia は新約聖書の言語、ギリシャ語ではELEOSと訳されています。ELEOS は私たち皆が知っているキリエ「エレイソン」、「主よ、あわれみたまえ」にあたります。その意味で、「いつくしみ」の特別聖年よりも「あわれみ」の特別聖年のほうが正しいのではないかという意見もあります。皆さんも遊びながら 辞書をひいて「あわれみ」と「いつくしみ」の違いを探していただければと思います。

 ELEOS は、旧約聖書のヘブライ語の HESED にあたります。HESED は、聖書の専門家によればよく契約用語の ⑴ 「愛」に訳されているそうです。その契約用語である愛の特徴は永遠性です(一コリント13:8 「愛は決して滅びない。」 参照)。
 歴史を振り返るとわかるように、イスラエルの歴史は、神との契約の破壊の繰り返しです (出エジプト記32:34参照) 。それでも、神はその愛、その契約の永遠性を守るのです。「わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないとあなたを憐れむ主は言われる。」 (イザヤ54:10)

 またELEOSは、旧約聖書では ⑵ 体内 と ⑶ 優しさと ⑷思いやりとも訳されています。その場合、母親と父親の子供に対する愛情と兄弟愛を表しています。 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ49:15)。
 「父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」 (詩編103:13)。
 「 ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた 」(創世記43:30)
 ELEOS・「いつくしみ」•「あわれみ」・「愛」は神の特徴だけではなくて、⑸神様そのものです。「神は愛である」(一ヨハネ4:8参照)。
 
 神は三度、モーセに次のように自己紹介しました。「わたしはある。わたしはあるという者だ(出エジプト記3:14)」  「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。(出エジプト記33:19)」  「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち(ている) (出エジプト記34:6)。」
 
 人間は「愛」・「いつくしみ」・「あわれみ」という神様の本性に与るために造られたのです。「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ(た) (詩編8::5-6)。」

  「いつくしみの特別聖年」を通して、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい(ルカ6:36)」というイエス様のことばを「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である(レビ記19:2)」に照らし合わせて生きることができますように。

 

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