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2013年11月号 聖徒の交わりと罪の赦し
主任司祭 パスクアル・サオリン・カマチョ神父

  教会の一致は三位一体の神秘に基づきます。旧約聖書から人間が個人的に信じるものではなく、民の中で、共同体とともに信じるものであることが表れます。思い出しましょう:神様のイメージに象って、創造された人間は一人ではなく、家族(アダム・イブ・アベル・カイン)として創造されました。しかし、罪のために家族の交わりは壊されました。アダムはイブを訴え、楽園から追い出されました。また、カインは自分の兄弟アベルを殺し、人間関係の中に争いと分裂の種を蒔いてしまいました。ノアは自分の家族と創造されたものを箱船に乗せて救っても、人間の状況は変わりませんでした。神の民(イスラエル)の歴史は同時に連帯と協力、争いと分裂の歴史です。教会は同じであると思います。

  キリストとともに新しい創造が行われます。キリストも一人で現れないで、ユダヤ人の家族の息子になり、30年間家族の生活をしました。それだけではなく、自分のふるさとから離れた時、色んな弟子を選んで、他の家族を作りました。これは教会の初めです。創造の初めから同じように、信者は一人で信じないで、共同体から信仰を受け、兄弟姉妹とともにその信仰を守り、伝えます。一人で信じることが出来る人は一人もいません。従って、教会から離れることは信仰を無駄にして、失うための最も簡単な方法です。この世の中にいても、この世から去っても、洗礼を受けた人はみんな神の民に属しています。この共同体は人間の集まりだけではなく、神様に設立された民としての、聖なる教会です。従って、教会の信者の関係を「聖徒の交わり」と言います。この交わりはキリストとの繋がりに基づいた、聖なる結びです。司牧の分かち合いと共同活動はこの聖徒の交わりに頼らなければ、教会は普通の人間の集まりになってしまって、世俗的な集いだけになってしまいます。

  聖徒の交わりの基礎は神様の愛です。この愛は赦しの源です。人間の一般の集まりの中で、赦すことは難しいことです。仲間の過ちを赦さないための理由はいっぱいありますが、赦すためには一つの大事な理由しかありません:神様は先に私たちひとり一人を愛して、赦してくれたので、私たちも隣人を赦さなければなりません。信仰がなければ罪の赦しを信じることはとても難しいことです。しかし、赦しは教会の徳ではなく、神様の愛から出る徳です。教会は神様の赦しを持たないで、管理しかできません。確かに、この聖なる赦しがなければ、聖徒の交わりは有り得ないことになります。教会はこの二つの信仰の部分(聖徒の交わりと罪の赦し)を祝うために、二つの大事な秘跡があります。それはミサと赦しの秘跡です。これから、普通の儀式ではなく、神様の一致と赦しを与えてくださる恵みとして、ミサに参加して、赦しの秘跡を受けましょう。

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