大晦日と元日の違いはなんでしょうか? 暦の上では、この二日の間には大きな変化があります。しかし、よく考えれば寺院の除夜の鐘の音は人間の状態を変えることは出来ません。冬の寒さは変わりません。病気の人の痛みは治りません。一人で暮らしている人は自分の寂しさから抜け出せないで、絶望に落ち入ってしまい、新年と共に希望の光を見つけることは出来ません。

しかし、状態は変わらなくても人間として過ごした年月の重荷を捨てたいと思う気持ちがあるのではないでしょうか。みんなが過去を乗り越える必要性があると思います。実は、人間の心の中には解放の望み、自由への憧れ、救いの叫びがあります。新年は人間の夢を完全に実現することはできなくても、新しいチャンスを与えてくれます。信仰を持たない人にとっても、新年は回心の体験であると言うことができます。たとえば、新しい年を迎えるために大掃除をしますが、大掃除をする人は本当にきれいにしたいものは建物ではなく、自分の心であると思います。

私たちは信徒として、降誕祭の季節の中で新年を祝います。降誕祭の季節は1224日の夜から始まり、公現祭で終わります。したがって、新年はちょうど降誕祭の季節の中で迎えます。この祝日はいろいろな出来事を通して一つの神秘を示しています。この神秘は受肉の神秘です。神様はこの世界を完全な物として創造なさいましたが、この世の中には自由もあるので、創造されたものは神様の御手から離れてしまいました。これは罪と悪の原因です。神様はこの創造物の堕落を見て、創造を諦めないで、新しくするために今もご自分の命を与えられます。こうして、世俗的なものの中に、神様の肉を見つけることが出来ます。創造物は聖なるものにされ、罪と悪の場所だけではなく、癒し、赦し、解放、救いの場所になりました。そのために、ナザレの小さなマリア様の体の中にも、ベツレヘムの汚い馬小屋の中にも、私たちの汚れた心の中にも、神の子と出会うことが出来るのです。これが本当の新しい命の始まりです。新年と共に、新生を作らなければなりません。キリストの到来と出現を味わって、神様の救いを実行して、命を新しくしましょう

カトリック宝塚教会

カトリック宝塚教会月報 2012年1月号
新年 新生

主任司祭 パスクアル・サオリン・カマチョ神父