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2020年 ご復活号
わたしの息子なら敬ってくれるだろう
 (マルコ12:6

主任司祭 カレンガ神父

   皆さん、キリストのご復活、おめでとうございます。

 私たちは毎年、四旬節の間、復活したイエス様の栄光をたたえるアレルヤ唱と栄光の賛歌を控え、復活徹夜祭に荘厳に歌うことに慣れています。ところが今年、新型コロナウィルスの影響で、多くの皆さんは四旬節の始まりを告げる灰の水曜日が、最初で最後の四旬節ミサとなってしまいました。洗礼を希望されている方々にとってカトリック教会の学びの一つである素晴らしい機会を、失ってしまったように思います。けれども、教会の優しさにより、毎年、この大切な時期を過ごすように定めてくださっています。これは神様のあわれみ(み心)によるものです。神様のそのあわれみ(いつくしみ・優しさ)の頂点は、私たちのためにイエス様を復活させたことにあるのではないでしょうか。父である神のイエス様の復活に対する思いを、聖書のこの言葉にまとめてみました。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう (マルコ12:6)」。

 この聖句は、一見、父である神の人間に対する甘い予測を表しているように見えますが、大きく見ると、神の優しさを表していることがわかるのです。神は人間を助けるために多くの僕(しもべ)を送りましたが、侮辱され、殴られた者もいれば殺された者もいました。にもかかわらず、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう 」と言う父である神の甘さです。犯罪人のように十字架につけられた「愛する息子」を見て神はどうしたのでしょうか。神は人間の予測を越えて、イエス様を殺した人々をひどい目に遭わせず、むしろ彼らのためにイエス様を復活させたのです。そこに神の愛と優しさがあります。

 神はさらに、イエス様をご自分の右の座につかせ、その加害者のとりなしの務めを与えたのです。以下の聖書の箇所は神のなさる不思議な業を伝えているので、復活の黙想の言葉として心に留めて頂ければと思います。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった(マルコ12:10) 」。「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る(ヨハネ19:37)」。

 

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