カトリック宝塚教会  月報「よろこび」  巻頭言  カトリック宝塚教会のロゴ
2017年8月号
「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」
(マルコ4:38)
主任司祭 カレンガ神父

   日本の教会は、今年も平和旬間(8月6日〜8月15日)を迎えます。
平和旬間を過ごすということは単なる過去を振り返り、人間の過ちから生まれた大戦を反省し世界平和のために祈ることだけではありません。教皇フランシスコが言われるように私たちが今、悲しいことに、「散発的な世界大戦」に直面していることを認めることでもあります。また、現代を特徴づける最新のコミュニケーション手段と移動性の向上は、暴力に対する意識を高めていることを考える機会でもあります (2017年教皇フランシスコの平和メッセージ参照)。その中でイエス様も戦争の時代に生きていたということを思い起こすとよいでしょう。にぎやかなこの時に、嵐の中でこそ、私たちはキリストの言葉の力を知り、キリストを知るのでしょう。

 イエス様はいろんな意味でにぎやかな時代に過ごしました。イエス様の言葉で静められた嵐の物語(マルコ4:35〜41; マタイ8:18〜27)はその時代を物語っていると言えるのではないでしょうか。
 この物語を通してイエス様は戦争の時、にぎやかな時に、司牧者、教会が取るべき態度を示してくださったように思います。弟子たちからは、イエス様は寝ている、何もしてくれないように見えたように、戦争で苦しんでいる人々からは、神は寝ている、何もしてくれないように見えます。しかしイエス様の態度が示しているのは、平常心ということよりも復讐の誘惑に勝つことではないでしょうか。イエス様の行動と言葉からは、復讐の誘惑に耐えることの大切さが伝わってきます。

 『イエスは神の無条件の愛、受け入れてゆるす愛をつねに説きました。そして敵を愛し(マタイ5・44参照)、もう一方の頬(ほお)をも向けるように(マタイ5・39参照)弟子たちに教えました。姦通の現場で捕らえられた女に告発者たちが石を投げるのをやめさせたとき(ヨハネ8・1〜11参照)、またご自分の死の前夜に、ペトロに剣を納めるように言ったとき(マタイ26・52参照)、イエスは非暴力の道を描いていました。イエスはその道の行き先である十字架まで進み、それにより平和を実現し、敵意を滅ぼしました(エフェソ2・14〜16参照)「教皇フランシスコ、2017年平和メッセージNO.3」』。
 平和を築くためには暴力や争いの源に目を向ける事が大事です。暴力と平和が遭遇する真の戦場、暴力と平和の源は人間の心の他にはないのです。

 「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである(マルコ7:21〜23)」。教皇ベネディクト十六世は 人間の心の乱れから「あまりにも大きな」暴力と「あまりにも大きな」不正が世界中で目立っていますと指摘されました。それに対抗するために、武器や核兵器は不要で、「より大きな」愛と「より大きな」いつくしみが必要ではないでしょうか。

 聖マザー・テレサは、神の恵みによって、イエス様が現代の私たちに提案した道を見事に歩まれました。マザー・テレサは「生まれなかった子ども、世間から見捨てられ無視された人などのいのちを受け入れ、守ることを通して、あらゆる人のために尽くしました。・・・・・衰弱し路上で死にかけている人々の前に彼女はかがみこみ、彼らの内に、神がお与えになった尊厳を見ました。そして、この世の権力者の前で声を上げ、貧困を生み出すという犯罪による罪ーーーまさに罪ですーーーを負っていることを彼らに自覚させようとしました (2017平和メッセージ)」。

 平和を求めて祈る宝塚教会の私たち一人ひとりが、自分自身の心にある悪い思いを捨て、無関心な扱いを受けている人々と、不正義と暴力を受けている人々を、教会、家族の一員として受け入れ、優しい言葉がけと微笑みの心で平和の作り手となれますように。

 

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