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2017年2月号
「願うものは何でもやろう」
(マタイ14:7)
主任司祭 カレンガ神父

   洗礼者ヨハネの殉教の場面での、「願うものは何でもやろう (…) 」 (マタイ14:1〜11) ヘロデ王の この言葉から、皆さんと一緒にカトリック教会における司牧について考えてみましょう。この物語を読んでお分かりになるように、ヘロデイアの娘であるサロメの踊りに、感動を受けたヘロデ王は、このサロメに「願うものは何でもやろう」という約束をしました。この約束をすることで、ヘロデ王は、彼女に考える余裕を与えました。その一方で、洗礼者ヨハネに対して憎しみに燃えていたヘロデイアは、娘にその余裕を与えませんでした。自分自身も余裕がなかったのでしょう。「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください (マタイ14:8)。」と娘に勧めた。

 余裕を「持つ」と「持たせる」というのが、カトリック教会の司牧におけるゴールデンルールではないでしょうか。イエス様は、山上の説教で 「 (…) 人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい (…) (マタイ7:12)」 と述べられました。また、聖アウグスティヌスは、その余裕を強調するために、次の名言を残しました。「愛ゆえに、何をしてもいい」と。それは CHARITY (思いやり) の原理です。例えば「思いやりのある運転」という表現も、大いに参考となるでしょう。教皇様と司教団、また司教様と司祭の間にある思いやりを、「司牧的配慮」と言います。宝塚教会共同体の私たち一人ひとりが「思いやりの原理」で奉仕に臨むことができるように、切に願いましょう。

 「思いやりの原理」はいわゆる「評議会主義」 の正反対と言えるのではないでしょうか。例えば、評議会主義は以下の通り表現できます。
 ① 小教区の全ての決定は評議会を通さないといけないという考えです。(例 :トイレットペーパーを買うのも評議会を通さないと買えない)。大阪教区が出している評議会規約の「基本」的な意思決定の場、宣教司牧の「基本」方針・「基本」計画の「基本」という言葉の意味を、各自確認してみましょう。
 ② 小教区評議会は、司牧者に代わるものだと考えることです。そこで教会法に定められている評議会の意義を紹介したいと思います。
「キリスト信者は、小教区評議会をとおして、司牧者と共に、司牧活動を促進するよう援助しなければならない (536条 ⑴ 参照)。」

 「思いやりの原理」は、ヘロデ王の余裕を与えるやり方、「評議会主義の原理」は、余裕を与えないヘロデイアのやり方と呼べるのではないでしょうか。あなたはどちらのやり方になるのでしょうか。

 

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