カトリック宝塚教会  月報「よろこび」  巻頭言  カトリック宝塚教会のロゴ
2016年8月号
「イエスは その人たちの信仰を見(た) 」
(ルカ5:20)
主任司祭 カレンガ神父

    いつくしみの特別聖年を過ごしている私たちは、日々、生活の中でいつくしみの業を行うように勧められています。精神的ないつくしみの業もあれば、身体的ないつくしみの業もあります。身体的ないつくしみの業と聞くと〈マタイ25〉の“最後の審判”を思い浮かべます。最後の審判というと『…わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと… (マタイ25:40)』と『…この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったこと… (マタイ25:45 )』というイエス様の言葉が印象的ではないでしょうか。イエス様は地面に倒れていたサウロにも、同じみ言葉を聞かせました。「…わたしは、あなたが迫害しているイエスである (使徒言行録9:5)」 と。

 さて、このみ言葉から、イエス様は、今のわたしたちに何を望んでおられるのでしょうか。それは歳や病で弱ってきている兄弟姉妹を、ご自分のもとに連れてくるという事ではないでしょうか。それは、特定の人が果たす役割ではなく、教会共同体全体が担う役割だと思います。ここで皆さんにお尋ねします。皆さんは、自分が弱ってきた時、または病気になった時に、教会からのお見舞い(訪問)を希望しますか。家族の者、または友達が、歳や病で弱ってきた時、その方と教会との間に立ち奉仕をしたいと思いますか。その間に立つ場合、「してあげる」 の気持ちか、それとも 「させて頂きます」の気持ちで立つのでしょうか。自分も含めて、兄弟姉妹を、教会に引き合わせる事は「してもしなくてもよいこと」というよりも「信仰」によるものだと思います。屋根をはがしてまでして中風の人を、イエス様のところに連れて来たあの男たちの信仰を見て、イエス様は驚きました(ルカ5:20)。

 わたしは、前任地である姫路教会にいた時に、イエス様のように人々の信仰を見て驚いた二つのある体験を皆さんと分かち合いたいと思います。 一つ目の体験は 信者ではない若い夫婦との出会いでした。30代後半で余命の宣告を受けていた方の奥様が突然、姫路医療センターから来られ、「…神父様に会いたい」と申し出ました。そして、残された日々を、姫路にある聖フランシスコ会のマリア病院で過ごしたいと望んでおられ、私は、その方が帰天されるまでお付き合い「させて頂きました」。宗教の違いと文化の違い等を超えて、教会(イエス)との出会いを実現させた、その洗礼を受けていない夫婦の「信仰」を心に留めていきたいのです。

 二つ目の体験は、キリスト者のある家族から得たものです。神戸の大学病院のICU(集中治療室) に入っていた家族の一人の病者の塗油のことでした。その家族は、その日、朝早く車で姫路教会まで私を迎えに来てくれました。神戸の大学病院に着いた時、集中治療室には家族の者以外は入られないという「決まり」があると告げられました。その時、その家族のある方が「マリア病院だったら、そのような問題は起こらないよね」と思わず口をはさみました。外国人の私がカトリックの司祭であることと家族がカトリックの信者であること、カトリック教会における病者の塗油の意義を、病院の関係者に伝えました。10〜15分の遅れでようやく集中治療室に入「らせて頂きました」。その日、姫路から神戸までの距離をものともせずに、そして病院の「決まり」を超えて、病者の塗油を実現させたその家族の「信仰」を心に刻んでいきたいのです。

 教会内外で、高齢者・病者と共に過ごしている私たち一人一人が、その方々を通して信仰を表す者となりますように。私たちの信仰を見ておられる神様が、高齢者・病者とその家族や友達に慰めと癒し、生きる希望を与えて下さるように祈りましょう。
 

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