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カトリック宝塚教会月報 2008年3月号
“雇われ羊飼いのつぶやき”(その16)
湖へ!…復活…寛大に…
(復活後の行方、愛徳)
オプス・デイ属人区司祭 酒井俊弘 神父
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 少々品がないお話から。
山の中の湖を探検に来ていたアメリカ人、フランス人、スペイン人の前に湖の妖精が現れて言いました。
ようこそ!
ここまで来てくださったお礼に、プレゼントを差し上げましょう。
湖に飛び込む前に大声で叫んだものに、湖全体が変わるようにしてあげます」
まずアメリカ人が「ウィスキー!」と叫びながら飛び込むと、湖は全部ウィスキーに!
すっかり満足したアメリカ人が上がった後、今度はフランス人が「ワイン!」と叫びながら飛び込むと、湖は全部上等のワインに!
最後にスペイン人が勢いよく湖に走って行って飛び込もうとしたとき、湖畔の岩にけつまずいてしまいました。
空中で「ク○ッ!」と叫びながら、彼は湖の中へ…。
 今月は主のご復活をお祝いします。
キリストが復活したということは、キリスト教信仰の根本です。
キリストがどれほどすばらしい教えを述べたのであっても、単なる人間であれば、あがない主、仲介者とはなりえません。
通訳は両方の言葉を話すことができる人であるべきであって、神と人との仲介者は、神であり同時に人である方でなければなりません。
イエス・キリストは、その死によって真の人であることを示し、その復活によって真の神であることを示されたのです。
 さらに、キリストの復活は、私たちにも関係します。
実に、キリストの復活は、将来の私たちの復活の始まりであり、源です」 ( 『カトリック教会のカテキズム』 655 )
私たちが固く信じ希望しているのは、キリストが死者の中から真に復活して永遠に生きておられるように、
正しい人々もまた、死後、復活されたキリストとともに永遠に生き、
世の終わりにキリストによって復活させられるということです」 ( 同 989 )
 しかし、皆が復活するとしても、問題はその先にあります。
永遠の幸福のために復活するのか、それとも永遠の苦しみのためか…という点です。
この点について、教皇ベネディクト十六世は、昨年末に出された回勅 Spe Salvi の中の、天国や地獄といった来世とはどういうところかという説明の中で、面白い捉え方をされています。
つまり、来世とは別の自分に生まれ変わって入る場所ではなく、この世での生き方そのままで入っていくところである。
ですから、神とその真理を無視し、人々を憎みながら生きている人は、そのままの状態の場所、すなわち地獄に行く。
しかし
一方、まことに清い人たちがいます。
このような人たちは、神によって満たされるまでにその身をゆだね、
それゆえに完全に隣人に向かって開かれている人たちです。
神との交わりがすでにその人のすべての存在を方向づけ、
神へのその歩みは、すでにそうである状態を完成させるものなのです」 ( 回勅 Spe Salvi 45 )
 神と隣人に寛大に奉仕する、つまり余ったもの(下図のように)ではなく、自分の大切なお金や時間を神と隣人のために費やすという生き方を貫いた人が、そのまま天国へと進むことができるのでしょう。
 結局、自分の生き方(最初のお話の「叫び」)で、行き先が決まるということです。
"Mafalda" by Quino
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