暑い日が続きます。
暑さでボーっとした頭に、一服の清涼剤。
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宝塚教会とかけて…、
ちゃんとしたお店ではないところからの年末のお届けものと、とく。
そのこころは…、
非商店の歳暮…、ひしょうてんのせいぼ…。
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少し、さぶ〜くなりましたでしょうか?
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さて今月15日は、宝塚教会が捧げられている「聖母の被昇天」の祭日です。
先日ごミサの後に、ある女性からいきなり質問されました。
「神父様、マリア様は被昇天されたそうですが、それは亡くなった後ですか、それとも亡くなることなく天に昇られたのですか」。
何と高尚、かつ神学的な質問!ここはローマの神学校か?!とひとしきり感激…。
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「聖母は死を体験したのか、それとも死を免れたのか」という疑問は、被昇天の教義決定(1950年)に際しても、大きな問題となりました。
「神の子であるキリストさえ死を免れなかったのだし、すべてにおいてキリストのみ跡に従う聖母ならなおさらのこと死を体験するのがふさわしかった」という考えと、「死とは人祖の罪ゆえにこの世に入ったのだから無原罪の聖母は死を免れていた」という考えがあったのです。
この論争には決着がつかず、教会は信仰箇条としては次のように述べるに留まりました。
「無原罪の神の母、終生処女であるマリアはその地上の生活を終えた後、肉体と霊魂と共に天の栄光にあげられた」。
つまり「死」という言葉も「復活」という言葉も使わなかったのです。
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この疑問は長らく解決されませんでしたが、ヨハネ・パウロ二世によって結論が出されました。
聖ペトロ広場でのお告げの祈りの際の講話で、こう言われたのです。
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原罪を免れたということは、不死の体であったということではありません。
御母は死を受け入れた御子よりも優れた方ではありませんでした。
(…)
キリストの復活に与るためには、マリアは何よりもその死にも共に与る必要があったのです。
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(1997年6月25日)
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というわけで、マリア様も「死なれた」と言えます。
その「死因」についても諸説があるそうですが、教皇様は聖フランシスコ・サレジオのきれいな言葉を引用されました。
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マリアは愛のうちに、
愛のゆえに、
愛のために、
すなわちその御子イエスへの愛のために亡くなった。
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そしてそのマリア様を、永遠の命を共に味わうために、イエス様自身が迎えに出られたという説も、引用されています。
皆さん、納得されましたか?
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他の教義と同じように、このようなことをすっきり理解できるのは、天国に行くのを待つしかないのかもしれません。
こんな話を聞きました。
聖母は死んだのかどうかという論争をしていた二人の学者が、「先に死んだ方が、残った方に真実を教えに来る」と互いに約束しました。
一方が死んだ夜、もう一方の夢の中に彼が現れて言いました。
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「おい、良い知らせと悪い知らせがあるぞ!」
「何だ い?」
「良い知らせとは、我々の疑問について、特別にマリア様ご自身が君に説明してくださるんだそうだ」
「すご〜い!で、悪い方の知らせって?」
「うん、その説明は5分後に、ここで始まるんだ…」
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